こころ
若者の命の重さと軽さ - 現代社会が命を軽んじるようになった原因

Glass Story
命の重さを比較
現代社会は、「命の軽さ」が指摘される。
だれでもよかったと証言する通り魔事件や、若者たちの不可解で残虐な事件など、他人の命を命と思わないような嫌な事件が相次ぐ。
その結果、「命が軽んじられている」という声が高まる。
そして、「いのちの教育」、要するに、命の重さを道徳教育のような〈言葉〉、頭で再教育する必要がある、という動きに繋がっていく。
一方で、今の高齢者世代が、「若者は命の重さが分かっていない」「命を軽んじている」と批判するとき、僕は少し疑問を抱くのです。
なぜなら、先の戦争の頃と比較して考えてみると、今ほど「命の重み」を、それこそ、しがみつくくらいに大事に抱えている時代はないのではないでしょうか。
僕の祖父は、ちょうど成人を過ぎた辺りの頃に終戦を満州で迎え、シベリアに抑留されそうになりながら、命からがら日本に逃げ帰ってきました。
その祖父が、家に戻ったとき彼の母親に言われた言葉が、「あんた一人くらい死んでくればよかったのに」というものでした。
僕は、写真でしか知らない曽祖母の、こうした「命を軽く見た」言動を批判したいのではありません。ただ、「命の重み」とは一体どういうことか、ということをもう一度しっかりと考えたいと思うのです。
命は、その当時と比較して、本当に軽くなっているのでしょうか。
そして、結論から言うと、現代社会のほうが、個々人にとっての命の重さは格段に増しているのではないか、と僕は思います。
「重み」は増すほど軽くなる
たとえば、我が子を自然の豊かな環境で遊ばせることを避ける理由の一つとして、万が一にも怪我をしたり雑菌に触れるような危険がないように、という意味合いもあるでしょう。
それは、まさしく「命の重み」に由来した行動です。
あるいは、意識がない、寝たきりの植物状態にも関わらず、徹底して延命をほどこす。
これも「命の重み」ゆえの選択でしょう。
たぶん、昔であれば、科学的に不可能であったという理由以外に、そもそも、このような処置は選ばなかったでしょう。
それは「命の軽さ」が原因でしょうか。
こういった点から考えてみても、「命の重み」論争の矛盾が見え隠れしています。
自然の世界で自由に遊ばせる機会が減ったからこそ逆に怪我をしやすくなったり抵抗力が弱まっていく。
子供の頃から生きものと触れ合う機会がないために、命の重みについて肌身で感じる体験が減っていく。
あるいは、延命措置で猶予を引き延ばすことで、実際に「死」が訪れたときのショックと悲しみの濃度が薄まっていく。命を重んじる家族に、テクノロジーが手を貸すことで、その願いは現実化する。
宗教が「死」の悲しみを癒すための願いの物語だとしたら、科学は、その物語を現実化していくものなのです。
さて、もう少し未来の世界のことを想像してみて下さい。
もし、テクノロジーによって命が永久に潰えることがなかったり、若返りや復活が繰り返し可能になったら、一体「命の重み」は、どれほどの重量になるでしょうか。
命の重さゆえに、「絶対に失いたくない」という悲痛の想いが激化し、テクノロジーが願いを叶えた ─── 永遠の命が手に入った、そういう世界を想像する。
たぶん、その「軽さ」は計り知れないでしょう。「命の重み」が増せば増すほど、僕たちの命は軽くなっていくのです。
僕たちが失ったもの
現代社会は、確かに、一見すると「命の軽さ」が原因だと思われるような残虐な恐ろしい事件が多いように映る。
しかし、それは「命の重み」が歪んだ形で増していった結果として、受動的に軽くなっていったと言えるのではないでしょうか。
命の「重み」と、命に対する畏敬や畏怖の念、すなわち「深み」は違います。
僕たちが失ったものは、たぶん、命の「重み」ではなく、「深み」に耳を傾ける感受性なのです。
