社会とビジネス
神経過敏な社会 - なぜ園児や部活動のかけ声など子供の声を騒音だと感じるひとが増えたか
Glass Story
子供の「騒音」問題
この数年、園児や部活動のかけ声といった子供の声を、「騒音」だという意見が増えてきました。
厚生労働省の調査では、「保育園児の声を騒音のように思い、保育所の立地に反対する住民の立場に同感できるか」という問いに、35%が賛同しています。
“子供は未来です、子供のいない街は、文字どおり「未来のない」街です。”
しかし、子供の声を騒音だと感じる感受性にこう訴えても、こうした「正論」さえも騒音だと感じることでしょう。
果たして、こういう不寛容な状況は一体なぜ増えているのでしょうか。
その理由について「神経過敏」という点から読み解いてみたいと思います。
騒「音」
まず最初に、この厚労省の問いに対する僕の答えは、「理解できる」というものです。
我が家の近所にも広場があって、子供たちが元気よく遊んでいます。ときに、きゃあきゃあと奇声のような声が聞こえてくることもある。
だから、「うるさい」と思う気持ちも、確かに理解できるのです(これが日中ずっととなれば、勘弁してくれ、と思うかもしれません)。
僕たちは、子供の声が聞こえてきたとき、それが「子供の声」とか「未来」だと頭で認識する前に、まず「音」として知覚します。
それは、表面に意味の付着しない、純粋な、騒がしい「音」なのです。
その「音」を受け取ったあと、意識が、「これは園児の声だな」「あの保育園から聴こえてくるな」と認識する。
要するに、「園児の声」よりも先に、身体が「音」をどう解釈するか、ということが、「騒音」と感じるか否かの第一の分水嶺になっているのです。
たとえば、頭痛や腹痛で喘いでいるときに声を掛けられると、「黙ってて!」と思うことはないでしょうか。
心配のことばや愛の告白も、自分の心身が精一杯のときには、ことばの「意味」よりも、「音」の段階で拒絶反応が出るでしょう。
最初に届く「音」という刺激を受けとめる余裕があって始めて、意識は「園児の声」を解釈することができるのです。
甲高い声が鼓膜に届き、ああ、園児の声だ、と気づく。
その「音」を頼りに、子どもたちの走り回っている情景や、過去の記憶、未来への萌芽が連想されていく。
そのため、その受けとめる余裕があれば、「音イコール騒音」という反射的な解釈は生じません。
子育ての難しさの一つは、子供が突然泣く、ということにあります。
先ほども書いたように、まずは「音」の刺激として余裕のない母親を襲います。また園児の声と違って「意味」が分からないことがある。
只でさえ身体的に拒絶反応がしょうじているのに、「なんで、なんで」と、「意味」をめぐって脳内で堂々巡りを繰り返す。
結果、心身ともにパニックに陥り、その「音」を黙らせるために、まるで目覚まし時計を乱暴に叩くように虐待をする。
神経過敏社会
こんな意見を言っている人がいました。
車内で騒ぐ子どもの教育を親にうるさく言うよりも、子どもが騒ぐことに耐えられなくなっている大人が増えた状況の方が問題だ、と。
今の圧倒的な情報社会は、僕たちを、常に緊張し、切羽詰まった状態、神経過敏の状況に追いつめています。
“世が文明になると、みなが神経過敏になって、馬鹿の真似などはできなくなるから困る(勝海舟『氷川清話』より)”。
過緊張の状態では、そっと触れる「音」でさえも激しい刺激となって、心身は過敏に反応する(左下腹部に射しこむ腹痛のときの「愛の囁き」を想像してみて下さい)。
園児の声を「騒音」だと捉える理由は、決して性格が歪んでいるからではありません。
むしろ、それは歪んだ社会の結果として真っすぐ表明された、声なき悲鳴なのです。
〈ほがらな心には、ハーブティーもおすすめです。〉
