からだと自然
自然栽培で町おこし − 市役所や農協と協力した移住や就農の推進
Glass Story
自然栽培推進する羽咋市
有機栽培よりも、さらに徹底した自然栽培という方法があります。
これは数年前に話題になった『奇跡のリンゴ』でもお馴染みの栽培法です。
この自然栽培を、市役所や農協が一体となって町おこしとして活用している希少な地域があります。
それが石川県の羽咋(はくい)市です。
なぜ希少かと言うと、指導的な立場として農家をたばねる農協自体が農薬や化学肥料の販売を行っているため、無農薬、無化学肥料という方向に進みづらい構造となっているのです。
実際に、農協のホームページでも、農薬や化学肥料の必要性について次のように謳っています。
近代農業では、化学肥料の使用や耐病性品種の育成など栽培技術の進歩に加えて、農薬は病害虫の防除に大きな役割をはたしています。
とくに第二次世界大戦以降は殺虫剤や殺菌剤、除草剤など効果の高い農薬が実用化され、農産物の収量は飛躍的に向上しました。
ところが、この地では、例外的に、利害が衝突する自然栽培と農協がタッグを組むことが可能となったと言います。
そこには、市役所に努める「スーパー公務員」の存在がありました。
のちに『ナポレオンの村』としてドラマ化もされる、高野誠鮮さんという元放送作家の方です。
スーパー公務員
羽咋市でも、特に神子原(みこはら)という地区は、人口がわずか500人ほどで、65歳以上の住人が半数を占める限界集落でした。
彼は、その地を再生させるために奇抜なアイデアを次々と繰り出していきました。
たとえば、高野さんが古い伝記を読んでいて「麦わら帽子の形をしたものが飛んでいった」という文言を見つけました。
よし、UFOで町おこしだ、と彼は考えます。
さっそくNASAや旧ソ連の宇宙飛行士と交渉し、本物の宇宙船や世界中のUFO関連の資料を展示した博物館を完成させました。
そして、当時の旧ソ連大統領ゴルバチョフや、アメリカのレーガン大統領などに激励のメッセージのお願いをしました。
また、「神子原」という名前から、神の子、すなわちキリストを連想した高野さんは、ローマ法王に手紙を書くことにしました。
ぜひ、神子原の米を献上したい、と。
高野さんは、バチカン市国に何度も何度も手紙を出したと言います。
すると、数ヶ月後、ついにバチカン市国から連絡が届き、45kgの米を担いで、市長と町長と高野さんで大使館まで行き、無事、献上することに成功します。
このことは、国内外の様々なメディアで取り上げられました。
そして、その結果、徐々に若者たちも移住してきました。
自然栽培の町おこし
こうした高野さんの奇抜な発想の延長に、「自然栽培で町おこし」というものがありました。
高野さんは、さっそく『奇跡のリンゴ』の青森の木村さんのもとに向かって自然栽培を広めたいと熱く語りました。
その想いに応えようと、木村さんは高野さんと一緒に自然栽培の塾を開くことになりました。
しかし、やはり当初は農協の壁が厚かったと言います。
理由は、冒頭にも述べたように、農薬や化学肥料、除草剤を推進してきた農協の側と自然栽培の根本的な考え方の違いがありました。
それでも、高野さんは、この壁を真っ正面から突破しようと、地元農協の組合長に直談判して理解を得たのでした。
今では、数多くの種類の自然栽培の野菜が、羽咋市では育てられています。
また、自然栽培と地方移住を組み合わせて市でも農地や居住の支援を積極的に行っています。
伝統的な農業とそれに関わって育まれた文化、景観、生物多様性に富んだ地域を守るために、JAはくいと羽咋市は共同で自然栽培の普及を目指しています。
こういったシステムを利用して、感受性の豊かな若者たちが移住を決め、おしゃれなカフェなどもできました。
もともとモノづくりの仕事をしていたので、それを究極的に突き詰めていくと農業に辿り着いたという感じもします。
何もない大地から作物をつくる作業は、究極にクリエイティブな仕事です。
もし、自然栽培をきっかけに移住を考えているようなら、このような支援策を利用してみてはいかがでしょうか。
〈参照〉
奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫) / 石川拓治
〈ほがらな心には、ハーブティーもおすすめです。〉
