社会とビジネス
仮装する心理と理由 なぜ、日本の若者のあいだでハロウィンが流行し始めたのか
Glass Story
ハロウィン流行の心理
ハロウィンとは、古代ケルト人が起源の伝統的な祭りである。
古代ケルト人にとっての一年の終わりである10月31日の夜に、魔女や精霊がこの世にやってくるので、化け物から身を隠すために、子供たちに化け物の仮装をさせた。
それが今では、その仮装した子供たちが、家々を尋ねて、「Trick or Treat(お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ)」と言ってお菓子を貰う、というお祭りになっている。
さて、その輸入物であるハロウィンが、なぜか、この数年若者を中心に日本で流行している。
ほんの10年前まで、ハロウィンはこれほどの盛り上がりを見せてはいなかったと、僕は記憶する。
しかも、本来の伝統や米国の祭りの形とは違って、日本のハロウィンは、子供ではなく若者が主役となって、街を占拠するように仮装パーティーをしている。
この若者たちのあいだのハロウィンの流行、特に「仮装」をメインにした祝祭は、今の時代の背景や深層心理を如実に物語っていると僕は思う。
それでは、一体なぜハロウィンと仮装が、ここまで今の若者の心を惹きつけるのだろうか。
その理由について、「仮装の抵抗感の薄さ」と「正装の消滅」、という二つのキーワードが挙げられる。
理由1、仮想の抵抗感の薄さ
まず、そもそも「仮装」というのは「自分ではない何か」になる、ということである。
この「自分ではない何か」になる「仮装」という行為は、実は、もうほとんど日常的に習慣化している。
それはSNSの流行だ。
TwitterやInstagramの空間では、ほとんどの場合、仮装した姿を他人に見せる。
溢れ返るサブアカウントはもちろんのこと、「セルフブランディング」という言葉に象徴されるように、着飾った自分を「作品」のように演出することに慣れ親しんでいる。
日々、「仮装」した若者同士が、その世界(TwitterやInstagramなど)だけの一期一会を繰り返しているのである。
こうした仮想(仮装)空間によって、今の若者たちは「仮装する」こと自体に対する抵抗感が薄くなっているのだ。
理由2、正装の消滅
もう一つの理由が、「仮装」の対義語、すなわち「正装」の減少ないしは消滅である。
仮装をするためには、本来地に足のついた「自分」という存在からの、大胆な飛躍が求められる。
自己という、言い換えるなら「正装」に固着するようなら、恥ずかしさや照れ臭さといった心理的な抵抗が邪魔をし、到底かぼちゃのお化けには変身できない。
ところが、現代社会は、正社員が減って派遣社員やアルバイトという着せ替え可能な「仮社員」が増えている。
あるいは、「この大学に行き、この企業に入れば、終身雇用で安心なので、家族を持ち、ローンを組んで、老後は年金暮らしでゴルフを」云々といった「正装=正解」もなくなった。
子供の頃から、世界の風景は、海川や土肌のようなリアルではなく、コンクリートジャングルというヴァーチャル空間に囲まれている。
そして、破滅的な災害の可能性(死の不安)がいつも隣に座って微笑んでいる。
こうした「正装」の揺らぎや不安定さ、消失によって、都市部を中心に若者たちは、ふわふわと浮遊したような「仮暮らし」の感覚を常に抱いているのだ。
空虚な世界でトリップする
さて、こうした閉塞感のある、息苦しく、嘘臭い時代を生きる若者たちには、二つの解決策が提示される。
一つは、「悟る」ことである。
求めない、過剰な情報に耳を貸さない。
世の中は全て「仮」なのだ、と釈迦が説いたような事実を受け入れる。足るを知り、瞑想をする。あるいは、「仮」ではない「本物=リアル」を求めて自然に向かう。
事実、若者たちのあいだでは、やみくもな上昇志向よりも田舎志向が目立ってきている。
そして、もう一つの方法というのが、「仮」を突き詰める、「仮装」の祝祭なのである。
逆に思いっきり「仮」の姿に浸ることで、トリップ状態となり、仮面を脱いだあとで「リアル」を実感する。
ただいま、と一息をつくように。
ハロウィンだけでなく、ライブや一人旅などは、日常の「仮」を、もう一歩踏み込んでみた先に見つけた選択と言えるだろう。
ハロウィンは、「リア充」のためのものだ、という声がある。
一方で、「普段リア充でなくても仮装のおかげで女の子から写真をお願いされた」という喜びの声もある。
でも、本当に「リアル」が充実していたら、わざわざ「仮装」空間には行かないだろうし、「仮想」空間で「いいね」を求めるようなこともないだろう。
僕たちは、「リアル」が空虚だからこそ、日々「仮装」を探し求めて、さまよい歩いているのだ。
Trip or Treat !!(お菓子をくれないとトリップしちゃうぞ)
〈ほがらな心には、ハーブティーもおすすめです。〉
