なぜ立ちションするおじさんが減ったのか | コップのお話
 

社会とビジネス

なぜ立ちションするおじさんが減ったのか

 
Glass Story

昔は(昔と言っても平成の始め頃で、田舎のことだが)、よく道ばたで立ちション(立ち小便)をしているおじさんを見た。

記憶に残っているのは幼少期に見た祖父の後ろ姿だ。庭の裏手の古びたフェンスに向かってよく立ちションをしていた。

今考えると、すぐ隣に家があるのだから、「なぜ家のトイレでしなかったんだろう」と思うが、当時の僕は少しも違和感を持たなかった。

 

立ちションするおじさんを、最近はほとんど見ない。

立ちションするおじさんの統計があるわけじゃないのであくまで印象論に過ぎないが、ずいぶんと数が減ったなと思う。

それでは一体なぜ、立ちションをするおじさんは減ったのか(なぜ、僕たちは立ちションをしなくなったのか)。

それは、〈都市化〉が一つの要因になっていると僕は思う。

排泄、小便というのは、確かに「汚い」ものだ。それはいつの時代も変わらない不変の真実だっただろう。「汚い」から、忌避する。

しかし、同時に、それは自然の営みでもある。

どんな生物であっても排泄は必ず行っている、言ってみれば自然界の一部なのである。

だから、今よりももう少しだけ自然が残っていた時代には、立ちションは、ある種「自然の一部」として(汚いことは汚いが)心理的に受け入れることができた。

ところが、コンクリートの敷き詰められた空間というのは、「自然」ではなく、「人工」である。

その「人工」の世界では、「立ちション」は、「汚い」だけでなく「異物」になる。「異物」は、部屋の虫や路上のネズミのように、「排除しなければいけない」、という心理が働く。

 

また一方で、小便をする方にとっても、まるで室内で行うような抵抗感が働く。

なぜなら、都市化された人工の空間は、たとえ駅のホームや道路であっても、人類にとっての「部屋」だからだ。

立ちションというのは、「野外」でする小便を指す。ところが、もはや家の外であっても「野外」ではないのである。

よく「プライベート」「パブリック」といった区分けをする。この区分けは、あくまで人間中心の考え方が前提となっている。

世界を人類が人為的に囲って、「プライベート」と「パブリック」に分けているに過ぎない。


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実際は、そのすべてが人間にとっての「プライベート」空間なのだ。

立ちションが減った理由は、この人間の「プライベート」空間から、「自然」が締め出されつつある流れの一環と言えるのではないだろうか。

 

ちなみに、モンゴルの遊牧民にとっては、ゲル、すなわち「屋内」が皆で集まる「パブリック」で、無限に広がる平原が「プライベート」なのだという話を読んだことがある。

また、以前あるアフリカの民族の祝祭の様子を映したドキュメンタリーでこんな光景を目にした。

その祭りでは、手製の天然の染料で体を彩り、人々が輪になって真ん中に火を焚き、若い男女が歌ったり踊ったりする。その踊りを経て、互いにカップルになるかどうか判断する。

そして、無事カップルが成立すると、二人で森の奥に消えていくのである。

彼らは、「自然界」を「プライベート」にする。「自然界」の側に、自分たちが属することを知っているのである。

 

ふと、思う。

もしかしたら、〈立ちション〉が減った代わりに、〈変態〉が増えたのかもしれない。

開放的になりたいと心底願うくらいの、この閉鎖的な世界ゆえに。

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2016-04-21 | Posted in 社会とビジネス