千と千尋の神隠しの解釈〜油屋、八百万の神と湯女、豚の両親とカオナシの正体とは | コップのお話
 

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千と千尋の神隠しの解釈〜油屋、八百万の神と湯女、豚の両親とカオナシの正体とは

Glass Story

千と千尋の神隠し

宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』は、象徴的な比喩で溢れ、様々な解釈の可能な作品です。

また単純に頭だけで解釈することは難しく、宮崎監督自身、明確には分かっていないで描いている部分も多いと言い、無意識の世界の領域も多分に含まれた作品です。

だから、ここでは、一つ一つの象徴を追いかけるよりも、僕が個人的に考える、この映画全体の根底にある大きなテーマ(方向性、世界観)などについて書いてみたいと思います。

 

 

解釈1、豚になった迷子の「大人」と湯女

まず、物語は千尋の家族が引っ越しのため新居に移動する車中から始まります。

そこで父親が道を間違えるのですが、父親は「近道かもしれない」と言って母親や千尋の反対を無視し、険しい林道を突き進んでいきます。

すると、その先に、古びた不思議な洞窟がある。

その洞窟に興味を惹かれた両親は、不吉な〈風〉を感じて必死に制止しようとする千尋の声を適当にあしらうと、すたすたと洞窟のなかに入っていきます。

洞窟を抜けると、そこには、バブルの崩壊で建設が中止されたさびれたテーマパークが広がっています。

さらそのテーマパークを突っ切ると、提灯のぶら下がった屋台が並び、そこで両親は再び千尋の制止を無視します。「お金ならあるし、クレジットもあるんだ」と、置いてあった食べものを勝手に次々と頬張っていく。

まもなく夜がおとずれ、赤い提灯がともり、店々が続々と開き始め、千尋は、屋台の席で醜い豚の姿に変えられた両親と直面します。

こうして千尋は、豚になった両親のために、公衆浴場(油屋)で「湯女(ゆな)」として働かされることになります。「働かされる」というよりも、この世界に存在するために、「替わりは幾らでもいるんだぞ」と言われながら、「働かせて下さい」とすがりつくように懇願する。

この「湯女(ゆな)」というのは、江戸時代に性風俗で働いていた娼婦、売春婦のことです。赤い提灯、赤いランタンの灯った街は、世界中で性風俗の象徴になっています。

赤い提灯てのは全世界共通で、売春宿のしるしです。飲み屋が赤い提灯を灯すようになったのは、逆にその後で、元々、赤い提灯は売春宿のしるしなんですよ。

出典  : 『千と千尋の神隠し』の本当の背景【ウエイン町山のモンドUSA第11回】

要するに、この序盤のシーンというのは、宮崎監督が日頃から批判的に語っている「大衆消費文明」を謳歌する現代人のツケ(寂れたテーマパークや、後払いで貪る両親) を、「湯女」として働くことで払い続けることになる子供世代の惨状を表現しているのです。

 

 

解釈2、油屋とは何か、湯女と八百万の神

この浴場(油屋)の役割について湯婆婆は、「八百万の神さまを癒す」ためにあると語っています。

子供たちの世代の象徴である千尋(名前を奪われた「千」)が、「八百万の神(やおよろずのかみ)」を癒すために湯女として働く。

八百万の神とは、日本古来の信仰で、山、石、川など万物の自然に宿ると言われる無数の神々のことです。神々は、この国の豊かな自然を物語るように、次々と芽吹いていった、と神話には描かれています。

この八百万の神を「癒す」ことが、湯女である千の役割であると、湯婆婆は言っているのです。

つまり、ここには、単純に身を捧げて(娼婦として)働き続ける、という意味合いだけでなく、これまでの日本社会が破壊し、食い尽くしてきたことによって、すっかり疲弊した「自然=八百万の神」を癒す、という意味(宮崎監督の願い)も込められているのです。

* 宮崎さんが過去ナウシカ制作の辺りからインタビューでたびたび触れているのが、「アトピー」や「ぜんそく」です。こうしたアレルギー疾患の増加もまた、からだという「自然」の問題(ツケ)です。

 

画像 カオナシに”ワクワク”なんか要らない。

 

解釈3、両親とカオナシの正体

カオナシは、制作の当初、ほんの少しだけ登場する端役として考えられていました。それが『千と千尋の神隠し』の制作を進めるうちに存在感が増していったそうです。

カオナシは、仮面をかぶり、「自分の言葉」を話しません。喋るためには、誰かを食べることで、声(「言葉」)を借りる必要がある。そして、好きな女の子と触れ合うために「金」を差しだす。

要するに、「他人の声」と「金」という「間接的な方法」を主なコミュニケーション手段(「言葉」そのものが性質上間接的だとするなら、二重の間接性とも言える)にするのです。

プロデューサーの鈴木敏夫さんは、著書で、カオナシの正体は宮崎駿監督本人だとか、キャバクラ嬢に入れ込んでいた口下手な男がモデルだと語っています。

しかし、僕は、カオナシの正体は、「物語の冒頭で豚になった両親」と、光と影の存在であり、またコインの裏表の同一人物である、という風に解釈します。

豚になった両親というのは、「腹八分」を越え、満腹以上の何かを満たすために、神々(自然界)の食事さえもむさぼり、金銭(後払い=クレジットカード)で解決しようとしました。

一方でカオナシも、あらゆるものを飲み込み、むさぼり(満腹以上に「食べる」)、他人の声(言葉)や金によって相手を掌握しようとします。

そこには、ある種の共通点が見受けられます。

つまり、カオナシは、千尋の両親の仮面であり、また欲望の制御を失った「大人」の隠喩、「影」なのです(千尋は、両親と、カオナシと、二度にわたって「食われそうになる」と言えるでしょう)。

カオナシは、溢れるほどの「金」によって千尋を懐柔しようとします。

でも、千尋は最後まで頑としてこれを拒否します。金では、あるいは、金には、自分(の魂)を売らなかった。

この千尋の応対に、「金」というコミュニケーションの手段を失ったカオナシはパニックに陥ります。そして巨大化し、暴走し、力づくで飲み込もうと千尋を追いかけます。

ところが、カオナシは、まもなくむさぼり食い尽くしてきたものを全て吐き出しながら、次第に萎んでいきます。

カオナシの正体とは、欲望を全開にした文明社会そのものです(これは、まばゆい光を求めた主人公の学者の「影」が、肥大化し、やがて主人公そのものを殺す、アンデルセンの童話『影』に出てくる影と同様の存在です)。

このように「大人」が、千尋を、最初は金で「食べよう」とし、次に力づくで「食べよう」とする。

しかし、結局、誰か「絶対的なヒーロー」が現れ、二元論的に「大人」を打ち倒すのではなく、巨大化したカオナシが、多くのものを吐き散らしながら(「嘔吐」という行為は、身体の解毒作用の一種で、場合によっては、その「症状」を越えないかぎり治癒はありません)、次第に自ずから萎んでいくのです。

 

 

千と千尋の神隠しの解釈のまとめ

この『千と千尋の神隠し』という壮大なアニメーション映画は、誤った道に迷い込みながら、決して後戻りのできない大人たち、バブルの廃墟を造った大人たちの「ツケ」と、半永久的に向き合い続けることになるだろう子供たちに宛てた、宮崎監督のメッセージであり、エールなのです。

この作品は、当時10歳だった友人の娘たちのために作ったのだと宮崎さんは言います。

私はこの映画を私の友人たちの2人の娘のために作りました。2人は千尋と同じ10歳です。

私は「善と悪の戦い」のようなものを見せたかったのではありません。世界の真実を見せたかったのです。少女たちはあまりに単純な善と悪の二元論的状況ではなく、あるがままの世界を発見しなければなりません。

出典  : 「千と千尋の神隠し」宮崎駿インタビュー

トンネルの向こうの夢のようなファンタジーの世界は、彼女たちの、僕たちの、たぶん、これから訪れる、紛れもない現実なのです。

 

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2016-04-27 | Posted in 文学と芸術