僕が西洋医学が"間違っている"と思う理由 | コップのお話 〜コップの水が溢れるように〜
 

社会とビジネス

僕が西洋医学が“間違っている”と思う理由

 
Glass Story

 

自分の手を他人の如くに考えろ

自分の心臓を娘の如くに思え

高橋新吉 1901 – 1987

 

医学は“間違っている”

医学や科学が間違っていると言うと、現代社会では、それこそ「神の否定」に近いような激しい批判を受けます。さすがに火あぶりにされることはありませんが、表舞台で公言すれば炎上は免れないのではないでしょうか。

それでも、僕は、根本的な部分で「医学は間違っている」、と言いたいと思うのです。

もちろん、それは医学に真摯に向き合っている方々が間違っているというのでもなければ、裏で暗躍するだれかを糾弾する意味合いもありません。

しかし、この医学(ここでは西洋医学を指します)という思考法自体につては、ある種の瑕疵を抱えていると言わざるをえません。

そのことを、あくまで個人の見解として、ざっくりとですが書きたいと思います。

 

 

間違っていると思う理由

西洋医学の根っこには、近代科学的な思考があります。

近代科学的な思考とは何か。

まず、一神教という一つの原理(絶対神)によって宇宙のことが全部説明できる、という考え方がありました。

そして、こうした神の時代から、「近代」と呼ばれる、人類が宇宙のことを説明できる、という時代に移っていきます。ここで醸成していくのが「近代科学」です。

この近代科学の特徴は、分析的な手法です。一つ一つのことを細分化したり数値化し、宇宙の成り立ちを読み解いていく。言い換えると、これは「細分化」や「数値化」をすれば、人類が成り立ちを理解できる、という考え方にのっとっています。

宇宙(自然)というものを、人類の「頭」によって解析できる。自然の方が、ヒエラルキーとして下層にある、と言ってもいいでしょう。

よく西洋の自然観を説明する際、「自然は支配するもの」と言うのですが、それは、「細分化や数値で解析することによって把握(手中に収める)している」という態度と同じです。

この「自然」というのは当然ながら「身体」も含みます。

だから、西洋医学も、他の科学と同様、とにかく画像や数値といった「客観的な診断」で判断します。

ただ、他の科学と西洋医学の大きな違いは、その分析をしたあとに「治す」ということです。数値や画像で判断し、“異常”を見つけたら「治す」。

この「治す」というのは、検査によって出た平均的な状態を、はみだせば「切除」や「収縮させる薬」を使用し、足りなければ「補う機器や薬」を使用する(繰り返しますが、これは本質について言っているのであって、従事したり、すでに使用していることを批判するものではありません)、ということです。

 

ちなみに、この西洋医学以外の療法を、西洋医学で足りない部分を補う意味で「代替療法」と表現することがあります。

しかし、根本的な思想にのっとって言うと、この西洋医学の方が、人々の足りない部分を補う(補い続ける)「代替療法」と言えるのではないでしょうか(最終的には死を補うために不老不死を求めるでしょう)。

 

話を戻します。

他の科学は、多くの場合、「治す」ということをしません。医学だけが、異常を見つけ、治す。

科学の分析的な思考の存在そのものは事実在るので僕も否定しません。ただ、分析によってすべてが理解できる、といった姿勢や、まして我々人類が「治す」のだといった態度を、僕は肯定することはできません。

科学者のなかでも、たとえば遺体(死)や生命の誕生や噴火のような壮大なスケールのものを対象にしている人たちには、そのある種の“傲慢さ”が無い方々もいます。

むしろ彼らは「趣味人」に近い。純粋に自然界に対する驚嘆のために研究(探求)をしている。

一般的に、自分の身体だと、自然界と違って、自分たちが所有する下層のものだという印象がいっそう強いかもしれませんが、しかし、本質的には宇宙の神秘と変わりません。

異常を「治す」というのは、噴火の成り立ちについて研究し、純粋な驚きを持って、場合によってはどんな生活(暮らし)を送ればいいかという実用的なアドバイスを送る、ということにとどまりません。

これは、火口をコンクリートの鍋蓋で塞ごうとする行為と根っこは一緒なのです。

 

 

間違った方向に進む理由

なぜ、こうした方向(「治す」)に進むのかと言うと、それは一方では「すぐに苦痛を取り除いてほしい」と考え、他方では、それが「利益を生む」からです。

伝統的な医療は、「人工」ではなく「自然」の方が上位概念にあることも多いです。自然治癒を重んじ、人間は、なるべく邪魔をしないようにする。自然治癒にとって、下痢や発熱がそうであるように、症状は敵ではなく自然が行う療法です(宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』は、こうした自然観が根底にあります)。

しかし、自然治癒を重んじる、という方向性は、現代の資本主義の形態では本流になりえません。なぜなら、それが「利益を生まない」からです。

科学世界の終焉を描いたSF小説『すばらしい新世界(1932年)』の一節に、次のような言葉があります。

サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。「それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない」

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著

この自然を、自然治癒に当てはめて考えてみて下さい。

自然治癒を重視し、各々が暮らしのなかで対処法(たとえば断食や川沿いの野草など)を見出していけば、「需要」をもたらしません。

人々が暴飲暴食をし、また添加物や農薬、遺伝子組み換え作物を体内に取り入れて、病人が増えれば増えるほど、西洋医学(薬やワクチン、あるいは「早期発見、早期手術」、これは何も本質を捉えていない広告コピーだと僕は思います)の需要も増加します。

前者で、企業側も経済的に「成長」し、後者で医学も経済的に「成長」します。「成長」は権力をもたらし、広告費もたくさん活用できるでしょう。

自然(身体)は、広告も打てません。一票を投じることもできません。症状として声をあげるか、絶滅危惧種のように、静かに姿を消すだけでしょう。

 

 

ゆがみを整える

途中で触れたように、存在自体を否定するつもりはありません。全面戦争をするつもりもありません。

ただ、僕は近代科学、西洋医学は、自然界の一員として“間違っている”と思うし、この“間違っている”と言うこと自体が異端扱いされる社会も、またこれほど「医学」が強大に膨れ上がっている社会も、“間違っている”、“ゆがんでいる”、と思っています。

このゆがんだ社会をゆっくりと整えていくには、これは医学に限ったことではなく、一人一人が「対症療法」ではなく「根治療法」とは何か、ということについて深く考えていく必要があるでしょう。

なぜ、僕たちは「対症療法」に向かうのでしょうか。

それは「対症療法」を採用すれば、自分が全面的に被害者になれるからです。そして、加害者は他に存在し、救済者もまた別に存在する。弱っている身としては当然の選択だと思います。

他方で、「根治療法」は、自分自身が被害者であるとともに加害者でもあり、かつ救済者でもある覚悟を求められます。

それは、非常に覚悟と勇気のいることですが、その覚悟をひとりひとりがちょっとずつ持ち、その覚悟を互いに支えていける「愛」のある社会になっていったらいいな、と僕は思います。

 

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2016-12-27 | Posted in 社会とビジネス