昔の恋人でもある若き女性芸術家の長谷川泰子に宛てた手紙 / 中原中也 | コップのお話
 

作家の言葉

昔の恋人でもある若き女性芸術家の長谷川泰子に宛てた手紙 / 中原中也

 
Glass Story

詩人の中原中也は女優を目指していた年上の長谷川泰子(一時小林佐規子に改名)と同棲し、その後泰子は中也の友人だった小林秀雄と一緒に家を出て行く。

この三人の出会いと雰囲気は、三上博史や樋口可南子が演じたドラマ版「汚れつちまつた悲しみに」の冒頭を見ると十二分に伝わってくる。

これはドラマのシーンにも登場するが、彼らの別れのとき、中原中也は放心状態だったゆえか、小林と泰子の引越しを手伝いさえしている。

そして、以下は、それから4年後の1929年の手紙。女優で、また当時は詩も書いている、悩める芸術家であった長谷川泰子にアドバイスを送ったものだ。

少し長めだが、彼の詩論、芸術論とも深く関連する内容になっている。

ちなみに、中原中也は自分の友人とともに出て行った長谷川泰子を決して恨んではいなかったようだ。

彼女はのちに小林秀雄とも別れ、別の男とのあいだに子供をもうけているが、中也がその子供のことをよく気遣った手紙も残っている。

 


今晩僕は非常に豊かな気持ちになることが出来ました。で僕はそれについて、あんたに語りませう。

「我に職を与えよ」と先達あんたが云ひました。さうです、その言葉が今時の世の中の倦怠をよく表はしてゐます。──── 僕は今その倦怠を心底抜け出ることが出来た。

今日中村屋で、一番本当の意味で流れていなかったのはあんたです。あんたは一番根のある人なのだが、一番純粋に根のある人といふものはとかく損得の感情に乏しく、正直で気が好すぎて、欲気はなしに自分自身ならざることを平気でやれるのです。欲気がないので実感のないことに平気で慣れるのです。──── が、それまでは何でもない。むしろ欲気のないことなど称賛すべきだ。

然るに、恐いのは、遂に自分を見失ふといふことです。見失つた人は意味(言葉)が解せなくなる。そして遂に、たとへばあんたのやうな一番根のある人が、一番根のない時間を過ごし、そして大人しくも自分は根がないなと何時の間にやら信ずることです。そしてもう何もかもが判然掴めなくなる。──── その時です。「我に職を与へよ」だの「何をすればよいか」だのと考へ出すのは。

それではそんなになることを防ぐにはどうすればよいか。

それは、純粋な人はともかく「流す」ことが好きなものだが、それを出来るだけ食い止めればよい。もつとよくいへば、例へば外出なら外出を制限するといふよりむしろ、むやみに外出したくならない気持ち、つまり自分自身であればよい、(だいたいよく外出する人は、その本心では外出したくながる側の人だといふことはお分りでせうね?)それにはただ沈黙が大事なのです。自分であることがね。つまり強くなければなりません。

さうしさへすれば、きつとすべきことが判然して来ます。──── 少し他の話ですが、あんたのやうな純粋な人が、自分自身であり得たら、一番楽に何かが表現出来るのです。何故といつて表現とは普通に考へるやうに描写することでは断じてない。表現とは自分自身であることの褒賞(ほうしょう)であつて、人が好いことに引きずられて外物本意に生きてゐると、人は何か現はしたいなと思ふや所謂描写をすることになるのです。その結果意味のない風景配列をするのです。

自分自身でおありなさい。弱気のために喋舌つたり動いたりすることを断じておやめなさい。断じてやめようと願ひなさい。そしてそれをほんの一時間でもつづけてご覧なさい。すればそのうちきつと何か自分のアプリオリといふか何かが働きだして、歌ふことが出來ます。

実に、芸術とは、人が、自己の弱みと戦うことです。その戦う力が基準となつて、諸物に名辞なりイメッヂなりを与える力です。

それにしても、詩人の素質を立派にもつたあんたが、そのことを自識してゐず、自分は或る方面から非常に善い存在だがなあと薄々分りながら、その存在を発揮することが出来ず、今はや随分消極的な気持ちになつてゐることは、惜しむべきです。──── 尤もそれでも、あんたの無意識は立派で、僕が悄気(しょげ)てゐる時にも、あんたが一番純粹な根のある眼で眺めてゐました。

僕は物が暗誦的に分らないので、全然分らないので、自分が流れると何もかも分らなくなるのです。けれども、僕は分らなくなつて悄気た時、悄気ます。人のやうに虚勢を張れません。そこで僕は底の底まで落ちて、神を掴むのです。

そして世間といふものは、悄気た人を避ける性質のものです。然るに芸術の士であるといふことは、虚偽が出来ないといふことではないか!

そしてあんたは虚偽では決してないが、恐ろしく虚偽ではないが、自分を流してしまひます。そしてあんたの真実を、かつては実現しませんでした。

が、どうぞ、沈默で、意志に富み、(外物を)描写しようといつた気分からお逃れなさい。そしてどうぞあんたのその素質を実現なさい。

打つも果てるも火花の命。

千九百二十九年六月三日

あんたに感謝する

中原中也

『汚れつちまつた悲しみに  −  私の人生観』中原中也著 吉田凞生編


ドラマ版の冒頭で、小林秀雄が、中也に「芸術には意識的でありたいね」と言う。

中原中也は、この“意識”よりも前の、「無」から芽吹くものを、流され飛ばされることなくどうとらえるか、ということについて日記や手紙、散文などで幾度となく語っている。しかし、この状態はひじょうに不安定で弱々しく儚く、つい「我に職を与えよ」と藁を求める。

それをおやめなさい、「やめようと願ひなさい」と中也は助言するのだ。

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2017-01-07 | Posted in 作家の言葉