茨木のり子の愛 戦争と、戦後を生き抜いた女性詩人の言葉 | コップのお話 〜体と心と自然の物語〜
 

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茨木のり子の愛 戦争と、戦後を生き抜いた女性詩人の言葉

 
Glass Story

詩人の茨木のり子(1926〜2006)が青春時代を過ごしたのは、ちょうど戦争がもっとも泥沼化していく時期だった。

終戦を19歳で迎えた。この戦争体験が、詩人茨木のり子の根幹をつくった。

戦後、他の女性たちがファッションや恋愛に戦中の溜まった想いを走らせるなかで、彼女は、「何よりもまず自分のしっかりとした言葉がほしいと思った」と語る。

僕は、あんまり茨木のり子の詩を熱心に読んではこなかった。彼女の代表的な詩はどれも、背筋を伸ばし、凛とした佇まいで、柔らかな空気のようなことばを求める僕の心には馴染まなかった。

たぶん、その佇まいの中心には、決して鎮まることのない戦争に対する「怒り」が根底にあったのだと思う。

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残しみな発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

 

戦争を目前に若くして亡くなった詩人たち(たとえば中原中也や八木重吉、宮沢賢治ら)は、まだ「散ってゆく」ことの美しさを胸を張って歌い上げることができた。

日本人の「もののあはれ」「侘び寂び」といった感覚を素朴に信じることができたのだと思う。

しかし、その「弱さ」に権力はつけこみ、人々はあの破滅的な戦争に導かれていった。

だから、私たちは、もう一度確立した「自分」を立ち上げなければいけない、というある種の責任を胸に茨木のり子は詩人になった。

戦後すぐのころ、当時は過去のものは全部否定的でしたよね。

そういう風潮にも影響されたと思うんですけど、日本の詩歌の伝統も「淋し、佗し」の連続でいかにも弱々しいという思いがわっときた。

もっと強くて張りのある詩が書かれるべきであると自分なりに考えたらしいんですね。(茨木のり子)

出典  :  対談「美しい言葉を求めて」(『茨木のり子詩集』収録)

こうして茨木のり子は「弱さ」を内に隠すことにしたのである。

戦争と戦後の動乱を生き抜いた詩人と、戦争を前に死んでいった詩人とでは、根本的に違うと、僕はいくつかの詩人の詩を読み比べてみて感じる。

そして、僕は、やはり戦前の詩人に惹かれる。そこには散ってゆくものの悲しみと美しさがある。

でも、戦争を体験した者にとって、「もう二度と戦争を行わないためには」と考える者にとって、たぶんそれは芯からは肯定できないものなのだと思う。

虐待を受けてこびりついた体のこわばりのように、中身や文体に「強さ」が自然と現れる。

代表作の『自分の感受性くらい』はもちろんのこと、1955年に出版された最初の詩集『対話』には、『もっと強く』という詩がある。

僕たち一人一人が、もっと強く願望を表に出していいのだ、と彼女は歌う。

 

もっと強く

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
ほしいと

すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味いたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫脊をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪どんらんにならないかぎり
なにごとも始りはしないのだ

 

しかし、結局、政府は、この「もっと強く」という民衆の想いを「経済戦争」という次のステージに移行させたに過ぎなかった。

だれもが「企業戦士」として働き、欲望が欲望を呼んだ大衆消費社会がおとずれた。

自然を破壊し、コミュニティも壊れた。「自分」を好き勝手に放散することによって「自分」を失っていった。

茨木のり子が願った「もっと強く」という想いとも、「感受性」とも、遠く離れた世界になっていった。

 

1982年、『寸志』という詩集に、『冷えたビール』という詩がある。

 

冷えたビール

冷えたビールは
むかしみんなの憧れだった
わずか二十年前
好きなときに好きなだけ取り出せて
うんと冷えたの ぐっとやれたら
さぞかしそれは天国だろう
気づいたら
いつのまにやら現実で
朝っぱらから飲むひともあり
春夏秋冬 どの家にも
冷えたビール何本かが眠り
路上でさえ難なくカタリと手に入る
だが
ああ天国!
おお甘露!
しみじみ呻く者はいず
さほど幸せにもなれなかった

不老長寿も憧れだった
いにしえより薬草をもとめ
仙人ともなり錬金術にうつつを抜かし
人智を結集追い求めたものが
身をよじるように焦れたものが
今や現実平均寿命八十歳になんなんとする
助けて!
手に入れた玉手箱の実態に樗然
みんなやれやれと深い溜息
互いに顔を見合わせて
こんな筈じゃなかったな

 

こんな筈じゃなかったな、というため息の重さ。

もっと強く、と願うことは、誰かの欲望を追いかけるのではなく、自分が本当に欲しいものを探し、見つけ、心から願うことだった。

自分の感受性を、自分で守る、ということだった。

彼女は、怒りと悲しみを込めて、教科書は金科玉条じゃないし、本もたくさんある。政府の方針がなんだ! と若者たちに言いたい、とある対談で語っていた。

 

 

茨木のり子には、24歳で結婚した最愛の夫・三浦安信がいた。しかし、その夫も、彼女が49歳のときに肝臓癌で亡くなる。

夫の死後、彼女が亡くなるまでの約30年間、二人の思い出の残った家で一人暮らしを続けた。

生前最後の詩集『寄りかからず』の表題作である『寄りかからず』は、彼女の詩人としての姿勢を示す集大成のような作品である。

 

倚りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 

彼女が「強い」詩を書いたからと言って、もちろん「弱さ」を認めないわけでなく、むしろ、「弱さ」の「強い」味方だった。

味方をする姿勢が強かっただけなのだ。

私はこの人たちのために詩を書く、この感情を詩にする、という矢印がくっきりとあって、矢印の先端を余白でボカすようなことをしなかった。

茨木のり子の詩の本質を、旧知の仲である谷川俊太郎は、「うちなる散文精神が詩の形を借りていた」と書いている。

散文精神とは、凝固なものだ。詩はもっと溶けゆくものだと僕は思う。そのことは周囲からも指摘を受けていたようだ。

しかし、彼女は、「これが自然だから」と言った。

 

 

茨木のり子は、2006年、くも膜下出血によって亡くなった。自宅で一人だったと言う。

彼女の死後、書斎から「Y」と書かれた箱が見つかった。

Yとは、夫、安信のこと。

その箱には、錆びたクリップで留められた原稿の束が入っていた。夫の死と向き合ってきた彼女が、その悲しみを綴った詩稿だった。

親しい友人に、「生前に出すのは恥ずかしいから」「最後の詩集はよろしく」と頼んであったと言う。一周忌、『歳月』という名で出版された。

その箱には、彼女が若かりし頃にそっとうちに隠したものがぞんぶんに詰まっていた。

 

ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々よりも焦らずに
おだやかに
執拗に
わたしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のベッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起し
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
千万の思いをこめて
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

 

部分

日に日を重ねてゆけば
薄れてゆくのではないかしら
それを恐れた
あなたのからだの記憶
好きだった頸すじの匂い
やわらかだった髪の毛
皮脂なめらかな頬
水泳で鍛えた厚い胸廓
π字型のおへそ
ひんぴんとこぶらがえりを起こしたふくらはぎ
爪がのびれば肉に喰いこむ癖あった足の親指
ああ それから
もっともっとひそやかな細部
どうしたことでしょう
それら日に夜に新たに
いつでも取りだせるほど鮮やかに
形を成してくる
あなたの部分

 

急がなくては

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと
急いでいます

 

古歌

古い友人は
繃帯でも巻くように
ひっそりと言う
「大昔から人間はみんなこうしてきたんですよ」

素直に頷く
諦められないことどもを
みんななんとか受け止めて
受け入れてきたわけなのですね

今ほど古歌のなつかしく
身に沁み透るときはない
読みびとしらずの挽歌さえ
雪どけ水のようにほぐれきて

清冽の流れに根をひたす
わたしは岸辺の一本の芹
わたしの貧しく小さな詩篇も
いつか誰かの哀しみを少しはあらうこともあるだろうか

 

 

 


 

私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送りくださいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出してくだされば、それで十分でございます。

あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか…。

深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。(茨木のり子の遺書)

 


 

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

茨木のり子詩集 / 茨木のり子 谷川俊太郎編

 

歳月

歳月 / 茨木のり子

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2017-06-09 | Posted in 文学と芸術, 作家の言葉