画家モーリス・ド・ヴラマンクの絵と「私の遺言」 | コップのお話 〜体と心と自然の物語〜
 

文学と芸術

画家モーリス・ド・ヴラマンクの絵と「私の遺言」

 
Glass Story

モーリス・ド・ヴラマンクの人生

画家モーリス・ド・ヴラマンク(1876〜1958)は、芸術の都パリに生まれました。

両親の影響(父親がヴァイオリン教師、母親がピアノ教師)もあり、幼い頃から音楽に親しんできたヴラマンクは、10代の後半からヴァイオリンで生計を立てます。

ただ、それだけでは収入が少なかったため、同時に、自身の屈強な体を使って自転車レースに出場し、家計の足しにするなど、多才な才能を持ち合わせていました。

絵を始めたのは、17歳(1893年)の頃でした。

ヴラマンクは、デッサンこそ学校で学んだものの、油彩画はほとんど独学で磨いていきました(以降、自身の絵のスタイルは幾人かの敬愛すべき画家の影響を受けながら独学で築き上げていきます)。

その頃、ヴラマンクにとって、絵を描くことは趣味程度のものに過ぎませんでした。

さらに、一時は絵からも距離を置いていたヴラマンクですが、転機が訪れたのが、アンドレ・ドランとの出会い(1900年)でした。二人は、偶然の出会いを経て、まもなく意気投合し、翌年、パリで開かれたゴッホの大規模展に一緒に行きました(ゴッホはこの約10年前に亡くなっています)。

そこで見たゴッホの絵に、ヴラマンクは深く感銘を受け、以来ゴッホを心の師として仰ぐようになりました。

このゴッホ展で、ヴラマンクはアンリ・マティスを紹介されます。当時、ヴラマンク25歳、マティス32歳、ドラン21歳でした。

そして、1903年、ヴラマンクはマティスら若い画家たちと、ヴィクトール・マッセ通りの古道具屋でグループ展を開催します。

この展覧会が、評論家によって「フォビスム(野獣派)」と呼ばれる画家たちの始まりの場となりました。

しかし、それからわずか数年で、この「フォヴィスム」の流れは収束し、セザンヌの回顧展が開かれると、今度はパリの美術界はセザンヌの影響を受けた世界を構成的に捉える「キュビスム」に向かっていきます。

ヴラマンクは、セザンヌの絵を理知的に解釈する「キュビスム」とは一線を画し、むしろ、セザンヌの影響を素直に踏襲した自然主義的なスタイルに進んでいきました。

また色彩も、ゴッホのような鮮やかな色から、徐々に暗い色調を帯びるようになっていきました。

こうしてゴッホ、セザンヌの影響を内面化し、1920年代になるとセザンヌの影響からも脱したヴラマンクは、ゴッホの表現主義とセザンヌの構成主義を昇華させたヴラマンク独自の画風を獲得していったのでした。

 

モーリス・ド・ヴラマンク「春の村」(1910年)

 

モーリス・ド・ヴラマンク「コンポート皿とコーヒーポットのある静物」(1910 – 11年)

 

セザンヌの影響から、どこか寂しげなヴラマンクの画風に。

 

モーリス・ド・ヴラマンク「雪の村通り」(1928 – 30年)

 

モーリス・ド・ヴラマンク「雪の街道」(1931年)

 

モーリス・ド・ヴラマンク「雪の村通り」(1939 – 40年)

 

ヴラマンクは、世界を理性で解釈して概念を提示する「アート(キュビスム、シュルレアリスム、抽象絵画)」とは距離を置き、独自の道を深めていきました。

それは、自然をまっすぐに眺め、〈見たままに描く〉、マネから始まる「印象派」の流れを忠実に継承したスタイルと言えるでしょう。

ヴラマンクは、自分自身の世界に忠実であろうと願ったのです。

彼はまた絵だけでなく、文章も数多く残しました。

それは決して絵を補完するためのものではなく、彼が、自分の見た世界を絵で表現するように、言葉(小説、詩、エッセイなど)で表現する、といった類のものであり、ヴラマンク自身は、文章を書く理由について「現代の愚かさに抵抗するため」と書いています。

このヴラマンクの文章のなかでもっとも有名なのが、彼が亡くなる二年前に、自身の人生観、芸術観を綴った遺言です。

ヴラマンクの遺言は、まだ存命中の1957年、「ARTS」誌にて公表されました。

ヴラマンクの死後、遺族は彼の墓碑銘として、この遺言の最後を締める、「私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた」という言葉を刻んだのでした。

 

ヴラマンク 1955年

 

モーリス・ド・ヴラマンク「私の遺言(1957年)」

 

これは私の遺言である。

私は現在80歳である。人生は短い。しかし、私は、いまだに空を見ることができることに驚いている。この世界で人間の生命を脅かしてきた何千もの突発事件を免れ生きてきたことに驚いている。

また私は、文明人が生み出した科学の野蛮さにこれまで耐えることができたこと、それでも恥ずかしさのあまり地下を這う虫にならなかったことに、自ら驚いている。

人生とは、指先で触れてわかるものである。人生とは、目の前に現れ、直接感覚に働きかけるものである。私の年老いた心のなかでは、ライスダール、ブリューゲル、クールベ、セザンヌ、ファン・ゴッホらに対する思い出が今なお新鮮であるが、それらがもたらした深い感動をありとあらゆる人々に無償で遺し伝えることにしよう。

そして同時に、私が嫌いなもの、私が拒絶してきたもの、たとえば、低温殺菌牛乳、薬品、ビタミン剤、代用食品、抽象芸術の装飾的な語呂合わせなどをも、惜しみなく、また嫌味なしに、遺し伝えることにしよう。

なぜなら、私はこんなに年をとったにもかかわらず、フランス料理を楽しみ、マッシュルーム入り若鶏や、ビフテキのフライドポテト添え、山鶉のキャベツ添えを味わい続けており、その上で、食事と薬を混同することはなく、田舎生活とサナトリウム生活を、作品と商品を、そして悪徳と愛情を混同することはないからである。

私は、苦悩を知らない人たちを気の毒に思う。また、適切な方法によってそこから逃れることができなかった人たちも気の毒に思う。

苦悩は、深い傷跡を残す。愛の悲しみの涙は、決して消えることはない。その涙の苦い味が口の中に残る。それでも、人が良い歯を持ち、空腹であれば、固いパンもとてもおいしく感じるものである。

美しい声を持つ人々は、たとえ苦痛にあえいでいても、歌うであろう。

芸術家や作家たちを駄目にするのは、お金そのものではない。金がもたらす安易さ、それが生み出す新たな欲望は、人生の様相を変え、内的情感を変質させ、当初の若々しくまじめな清らかさを萎縮させるほど、病的な要素であり、有害なものなのである。ひとつの作品の運命は、蒔かれ、芽を出し、花開く植物の種子の運命と同じなのである。

画家は発明家ではないし、絵画は発明であってはならない。本当に個人的でオリジナルな表現は、稀である。

たいていの場合、芸術家、いや、人間というものは、すでに使用されたやり方、どこかで見たことがありそれを再利用するやり方、使い古されたやり方でしか、何事も行うことができないものである。

内的様相をそれ自体の深みから表現し、人々に理解してもらうことがいかに難しいことか! 

あらゆるものが乱雑に混ざり合うなかから、本当の感情を見分けて選び出し、筆やペンで表現することがいかに難しいことか!

私は、若い画家たちに遺し伝えようとしているのである。野に咲くありとあらゆる花々を。小川の土手を。平原を行く白と黒の雲を。川、森と大きな木々、丘、道を。雪に覆われた寒村を。花が見事に咲きそろい鳥たちや蝶が飛び交うありとあらゆる牧草地を。

これらの幸福、それぞれの季節が巡り、花が咲き、心臓が高鳴るこの上もない幸福、光と影があり、空と水の色彩が存在するこの幸福、それらが、われわれのきわめて貴重な財産であり、傑作を生み出してきた原動力であることを、時にわれわれは思い出さなければならないのではないか。

それらは、税務署から取り立てられることのないわれら共通の財産であり、かつて畑や牧場で目にしたイメージをいまだにまぶしく目に焼きつけ、かつて耳にした泉の音をいまだに耳に残している年老いた画家が、公証人に邪魔されることなく後世に残すことができる共通の財産である。

これらすべてを、われわれは、十分に楽しもうではないか。

あなたがたも、それらを十分に尊重してはどうか。深く永遠の感情をカンヴァスの上に定着させるにあたって、あなたがたは、現れたばかりの夜明けやもはや夢見ることのできない昼間に感動して十分に味わってみてはどうか。

私は、決して何も求めてこなかった。
人生が、私にすべてのものを与えてくれた。
私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。

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2017-10-26 | Posted in 文学と芸術