被害者の顔が見えない 座間の自殺サイト事件(白石容疑者)と相模原の障害者大量殺人(植松被告)の共通点 | コップのお話
 

社会とビジネス

被害者の顔が見えない 座間の自殺サイト事件と相模原の障害者大量殺人の共通点

Glass Story

なぜ座間の自殺サイト事件が共感や怒りを呼びにくいか。

それは被害者の「顔」が見えない、被害者の「物語」が一向に見えてこないからではないか。

事件の発覚から数日が経っても、未だに被害者の身元の多くが判明していない(八王子の女性のように、捜索してくれる兄が、他の被害者には存在しないのだろうか)。

被害者のどれだけが自殺志願者だったかわからないが、すでに社会から半分消えた状態として日々を生き、そして、それが一般の人たちの、「私もそうだったかもしれない」を想起させづらいのではないだろうか。

隣の相模原で植松被告(当時27歳)の起こした障害者の大量殺人事件と、座間の自殺サイト事件の共通性も、そこにある。

すでに世界から半分消されている存在が殺されたために、生身の人間の犯罪や被害に思えず、まるでアカウントが消去された程度のような、どこかヴァーチャルな印象を与える。

重度の障害者が殺される、という事件は、その規模や思想性、残虐性にそぐわないほど小さく扱われ、あっという間に報道は下火になった。

多くの視聴者が、「私もそうだったかもしれない」を抱きにくいからである。

何を不安に思えばいいのか、何に怒ればいいのか、そういったことが分からない、姿の見えない不気味さだけが、胸に渦巻く。

メディアは物語を提供し、人は物語を消費する。

犯人はこういった経歴を持ち、こういった体験を経て、徐々に殺人鬼になっていった。被害者は田舎から出てきて、これから夢に向かって歩んでいく最中だった。

しかし、この事件の犯人(白石容疑者)は、「生きている意味が分からない」という透明な存在で、被害者もまた透明の存在である。

透明の存在が、透明の存在を殺した。

メディアは、犯人個人の闇や狂気を分析するよりも、この事件の「どう取り扱っていいか分からない、その不気味さ」を自分たちが抱くことそのものの不気味さや悲哀について、考えなければいけないのではないだろうか。

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2017-11-02 | Posted in 社会とビジネス