安楽死を巡る二つの「正義」 白石隆浩と植松聖、二人の殺人犯の共通点 | コップのお話
 

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安楽死を巡る二つの「正義」 白石隆浩と植松聖、二人の殺人犯の共通点

 
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白石隆浩と植松聖の共通点

神奈川県座間市で九人の遺体が見つかった事件で、今回逮捕されたのが、白石隆浩(27)。

この事件はまだ謎が多いが、被害者のほとんどが若い女性(女子高生も三人含まれている)だったこと、また自殺志願者で、ツイッターなどを通じて一緒に死んでくれる人を探していたことなどが分かってきている(ただ、実際に会うと「本当に死にたがっていたわけではなかった」と白石は供述している)。

この不気味な大量殺人事件と、そして犯人の年齢を見ると思い出されるのが、2016年に津久井やまゆり園で19人もの障害者を殺害した植松聖だ。

この19人というのは、日本で戦後発生した殺人事件としてはもっとも多い犠牲者の数であり、「戦後最悪の大量殺人事件」と言われる。

犯人である植松は1990年生まれで、事件当時26歳だった。白石は現在27歳であり、ほぼ同世代である。

世代論はしばしば否定的な見方もされるが、犯罪者の世代というのは、一つの重要な共通点である。なぜなら、「罪」というのは(あるいは「罪」の中身は)、文学や芸術がそうであるように、その時代、その社会のほころびを示す象徴となりうるものだからだ。

こうした年齢という共通項を踏まえた上で、二人のあいだには、もう一つ、重要な共通点がある。

それは、彼らの「罪」には、各々、ある種の「正義」が含まれている、という点である(それゆえに賛同者も少なからず存在する)。

それでは、彼らの「正義」とは何か。

また、「正義」から見える社会のほころびとは一体何か、考えてみたい。

 

 

植松聖(障害者大量殺傷事件)の「正義」

植松は、ある「正義」を理由にこの事件を起こした、と(事件前から)主張している。

それは、重度の障害者は働くこともできず莫大な公的資金によって生かされている、彼らの命を生かすことは「無駄遣い」なので安楽死させるべきだ、というものである。

もともと植松が事件現場となった障害者施設に勤めていた頃から、彼は同僚に「重度の障害者は安楽死させるべきだ」という主張を語っており、施設側に「それはナチス・ドイツと同じ考えだ」と批判されるなど、その言動が問題視されていた。

 

ヒトラーが、「優生思想」の下でユダヤ人を大量虐殺したことは有名である。

優生思想とは、優秀な遺伝子は残し、劣った遺伝子はこれ以上遺伝しないように「殺す」ことが合理的な手法だ、とされた思想である。

そして、実はヒトラーは、このユダヤ人虐殺以外に、同じく「優生思想」と「経費削減」を理由に「障害者」に対しても、T4作戦と呼ばれる「安楽死政策」を行なっているのである。

1939年9月1日、ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者」としての地位をボウラーとブラントに与えた。

出典  :  T4作戦  Aktion T4 |wikipedia

対象となる「不治の患者」は、精神障害者や身体障害者、遺伝病者、労働能力の欠如、同性愛者等で、計20万人以上が犠牲になったと推定される。

 

植松は、ナチス・ドイツ、アドルフ・ヒトラーの影響を受けたのだろうか。

彼自身、「ヒトラーが降りてきた」と言う。しかし、一方で、事件から一年後、あるジャーナリストとの面会で、「あれは大した考えもなく言った。職員に以前言われたからヒトラーと言っただけ。ヒトラーが障害者を殺したことは知らなかった」と語った。

また同時に、ヒトラーは間違っていた、と植松は言う。しかし、これも「ユダヤ人虐殺」に関しては、という注釈がつく。

障害者については間違っていなかった、とあくまで彼は主張する。そして、「安楽死にならなかったこと(強制的に殺したこと)」は反省している、と話す。

この発言から見ても分かるように、彼の動機には「優生思想」はなく、優生思想がないゆえに、ユダヤ人虐殺は反対だと言う。自分は「差別主義者」ではない、と彼は言う。

彼は、「合理主義者」なのだ。

人種云々ということではなく、経済合理的に、あるいは、もしかしたら日々重度の障害者の様子を目の当たりにし、倫理的に「安楽死(殺害)」するのが「正義」であると、彼は考えたのである。

 

私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。 

(中略)

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。 

植松聖が自民党の衆議院議長に送った手紙の一部

 

彼の「正義」に、ネット上などで賛同を示し、賞賛する声も決して少なくない。

被害者遺族の一人は、名前の公表を避けた。その理由は、「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません(毎日新聞)」だった。

 

 

白石隆浩(「自殺サイト」座間九遺体事件)の「正義」。

一方で、白石隆浩の起こした事件にも、(彼自身は正義感ゆえに実行したわけではなかったが)、一つの「正義」があった。

植松の場合が、身体障害者の「安楽死」だとすれば、白石は自殺志願者の「安楽死」という形に(結果として)なっている。

一人で死ぬのは寂しい、また苦しんで死ぬのも嫌だ、という自殺志願者に、彼は「首吊り士」という名前(アイコンは爽やかなイケメンのアニメを使用)で「一緒に死にましょう」「苦しくない自殺の方法を教えます」と声をかけて誘った。

被害者の身元がなかなか特定できずにいたのも、被害者が「自殺志願者」であったことが多少なりとも関係していたのではないか。

現在、年間で8万人が行方不明者になっている。これはあくまで届出の受理された数で、「行方を探そうとしてくれる人」が周囲にいる人の数字である。行方不明になった、という記録すら存在しない行方不明者も合わせると、10万人とも15万人とも言われる。

通常、行方不明の届けがあって、家族が名乗り出て、DNA鑑定をするなどして身元の特定が進む。しかし、今回の事件がどうかは別として、誰も探さない、名乗り出ない、写真も残っていない、そういう「自殺志願者」も少なくはないだろう。

社会的にほとんど透明のまま、自殺願望を持ち、自殺を代行する男に殺され、バラバラにされる。

 

東京を中心に都心部では「人身事故」という名目で飛び込み自殺によって電車が止まることも珍しくない。ツイッターを見れば、血しぶきのついた列車の写真や、「今この車両の下にいる」といったつぶやきもある。

満員電車で誰もが急ぎ、誰もが苛立っている現代社会では、「よそで死ねよ」という怒りの声も多い。

また電車の遅延等によって生じる「経済的損失」という物差しで語られることもある。

自殺志願者は、できるだけコストを少なく、迷惑をかけない形で死んで欲しい、と「合理的」に考えている、あるいは内心願っている人も決して少なくはないだろう(実際は、そう考えざるをえないくらい追い詰められている人々も自殺予備軍である)。

こうした願望を内心に抱く人たちにとっては、「自殺したい人がいる」「自殺を手伝う人がいる」というのは、「よそで、誰にも迷惑をかけずに死んでくれる」という「正義」に適っているのである。

精神的な「安楽死」。

自殺志願者は、周囲に迷惑をかけないように、国家が認可を与えた民間の「安楽死施設」で適法な方法によって安楽死できる(予約制で、当日が訪れるまでを「余命」と呼ぶ)。

荒唐無稽な話だろうか。

しかし、そこに合理性と「正義」を見る人も一定数いるだろう。


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ぼくらの「正義」とは

これからも自殺者(自殺率)は減ることはないだろう。精神疾患や障害者も増えていくだろう。

非合理な(ある種の合理性を持った)残虐な事件も増えるだろう。

目くらましの光に踊りながら、その裏で心身は蝕まれ、寛容さは失われる。治安(事件の数字上の話ではない。急に暴れたり、理由もなく襲われるといった経験も踏まえて生じる不安感も加味した「治安」である)の悪化によって、閉鎖的に、そして他罰的になっていく。

心は、余裕が失われると、たった一つの対象に怒りが向く。

あの過去さえなければ、奴らさえ存在しなければ、全てがうまくいくのに、と思う。そして、抹消しようとする。お前さえいなければ、お前さえいなければ。

この「お前さえいなければ」と、経済的合理性、コストカット、無駄の排除という現代社会のキーワードが歪んで結びつくとき、彼らの「正義」は認証を与えられる。

この「お前」に自分がなるのではないか、と震えている人も多いだろう。

 

しかし、それでは白石や植松の行なっているのは「正義」ではないと、「お前さえいなければ」と、もう一つの「正義」をぶつけて排除することに、果たして「正義」はあるのだろうか。

優しい世の中になるための、きみの「正義」を聴かせてほしい。

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2017-11-13 | Posted in こころ