ネガティブは「そのまま」でいい 茨木のり子の綴る「震える弱いアンテナ」とは | コップのお話
 

文学と芸術

ネガティブは「そのまま」でいい 茨木のり子の綴る「震える弱いアンテナ」とは

 
Glass Story

ネガティブは「そのまま」でいい

恋人や友人の気持ちを先回りして、悪い想像ばかりが浮かぶということはないでしょうか。

部屋で不安な夜を過ごしたり、傷つかないように予め予防線を張ったり、自分から距離を置いて関係を閉じてしまったり。

また、「失敗するのが怖くてわざと失敗する」ということもあるでしょう。

橋を渡るとき、橋が壊れないかと不安で叩いてから渡る。

しかし、まだ不安で、怖くて、何度も何度も繰り返し叩いているうちにやがて橋が壊れ、音を立てながら崖の下に落ちていく残骸を、ひとり眺めている。

僕自身、こうしたマイナス思考や物事を悲観的に見るネガティブな性格の持ち主でもあり、過去には不登校になったり恋愛で失敗も繰り返してきました。

今でも、僕のなかにはこの「マイナス思考」や「ネガティブな眼差し」の自分は存在しています。

しかし、その一方で「そうではない自分」も、様々な出会いや経験、読書などを経ながらゆっくりと育んできました。

ネガティブな眼差し(「闇」)を通して世界を眺める自分もいれば、ポジティブ(この言い方はあまり好きではありませんが)な眼差し(「光」)で世界を見る自分もいる。

ネガティブな性格を変えたい、と思う。

でも、それはネガティブな部分の自分を否定する、消し去ってしまう、ということではありません。

ものごとを悲しい側面から見ることは、一つの素晴らしい才能だと僕は思います。

ポジティブなだけでは、リスクを顧みずに飛び込んですぐに大怪我をします。ネガティブな見方、感じ方は、世界が健全に進んでいくために欠かせない能力なのです。

ネガティブは、そのままでいい。大切なことは、ネガティブの生かし方なのです。

 

 

震える弱いアンテナ

詩人の茨木のり子(1926〜2006)さんは、代表作の『自分の感受性くらい』のように読み手を鼓舞する詩だけでなく、弱さにそっと寄り添ってくれる優しい詩も数多く残しています。

そのひとつに、『汲む   Y・Yに』という作品があります。

一般的には「弱さ」と思われるような、ぎこちなさや失語症、頼りなさといったものを、「震える弱いアンテナ」と表現し、あらゆるいい仕事の核には、この「震える弱いアンテナ」があるのだ、と彼女は書きます。

以下は、詩の全文です。

 

汲む Y・Yに

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃

立ち居振る舞いの美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背伸びを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…..

わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです


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『茨木のり子詩集(岩波文庫)』茨木のり子著 

 

冒頭の「すれっからし」というのは、「擦れっ枯らし」と書き、「さまざまな経験をして悪賢くなったり、人柄が悪くなったりしていること」を意味します。

学校でも、社会でも、世の中に慣れているひとは大勢います。

慣れて、自然に振舞っているだけならいいですが、「できない」ひとを批判したり、人を人とも思わずに利用して悪事を働くひともいる。

また、仕事に対しても驕りが生まれ、手抜きを重ね、やがて大きな失敗を招く。

反対に、いつも慣れない、緊張して、言葉がうまく出てこなかったり、顔が真っ赤になったりする、そういうひとは、「初々しさ」を失わない、世界をいつも新鮮な眼差しで見ることができるからこそ、なのです。

著者の茨木さん自身、強い、あるいは、強くあろうとする女性でした。

そんな、どこか背伸びをしていた若かりし頃の彼女を見透かすように、あるときその「素敵な女のひと」は言いました。

初々しさが大切なの。

ちなみに、詩に描かれる「Y・Y」というのは、山本安英さんという女優さんだそうです。

Y・Yというのは新劇俳優山本安英。

茨木の文筆活動は、昭和21年20歳のとき、戯曲「とほつみおやたち」が読売新聞戯曲第1回募集に佳作当選したときに始まる。
薬剤師の資格を持ちながらその道に進まず、プレッシャーと将来への模索状況での当選は、「暗夜に灯をみつけたような嬉しさだった」と茨木は記す。

そんなとき、山本安英が励ましの手紙をくれ、それをきっかけとして、茨木は山本の家を訪ねるようになる。
この時、山本は40代の初め、劇団に所属せず、その後、「ぶどうの会」、「山本安英の会」を足場に演劇活動を続けていく。

この詩の初出は、茨木35歳のときの雑誌「いずみ」掲載。
「わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました」

茨木は、つくづくといい出会いに遭遇したものだ。
その出会いの上に、お互いに響きあうもの(才能、感性)を認めて、長くつきあうことになったのだろう。

出典 :「汲む - Y・Yに -  (茨木のり子)| 黙翁日録」

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2018-03-28 | Posted in 文学と芸術