コップのお話、の話 | コップのお話

コップのお話、の話

 

なみだは、にんげんのつくることのできる
いちばん小さな海です。

寺山修司 1935 – 1983

 

 

複合汚染のお話


僕は、僕自身の長い病歴と、そして体や心の症状を踏まえて、にんげんの〈からだ〉というのは「一つのコップ」なのだ、と思うようになりました。

コップに、日々「*1 ストレス」という液体が注がれていく。

その成分というのは、一般的に言われるような、多忙や不安、介護や子育ての心労、環境の変化、あるいは繰り返し夢に見る幼い頃の心の傷といった精神的なものだけではありません。

もちろん、そのどれもが、繊細な手当てが不可欠な深い深い問題です。

でも、それ「だけ」ではありません。もうひとつの側面がある。

今から約40年前、1975年に出版されたノンフィクション小説 複合汚染で作家の有吉佐和子さんが精緻な調査と表現によって描きだしたように、僕たちの刹那的な欲望の産物 ─── 農薬や添加物、色とりどりの機械的な光、香料、洗剤、あるいは今なら放射性物質や電磁波、遺伝子組み換え作物など、数えきれない(決して何か「一つ」だけが諸悪の根源というのではありません)ほどの化学物質や人工物質も、自然物である〈からだ〉にとっては着実に負荷となっていきます。

*1 「ストレス発散」、「ストレス・コントロール」の考え方を広げる必要があります。

 

確かに、一つ一つの物質だけなら、目に見える、数値や画像といったデジタル情報で判るくらいの即時的な症状は出ないかもしれません。

“直ちに影響はない”

しかし、先ほども少し触れたように、〈からだ〉というのは自然の一部です。

自然は、解剖学者の養老孟司さんのことばを借りるなら、決して「ああすればこうなる」といったような、単一の点と点で因果関係が結ばれるような単純な計算式では括れません。

常に、無限の要素が複雑に絡み合って今がおとずれる。

そのため、長期的な研究には向きません。

加えて、科学者は、マスメディアの抱えている問題点と同様、自分たちの運営資金のために、大企業や政府の不利になるような研究を避ける傾向にあります(露骨に圧力がかかる場合もあると言います)。

一体、誰が好き好んで自社の使用する(国策で推し進める)物質の長期的なリスクに関する複雑でほとんど不可能に近い研究に大金を支払うでしょうか。

と、そのような背景から、多種多様な「化学物質」「人工物質」を、複合的に、長期的に、あるいは世代を越えて摂取したり浴びつづけた場合にどうなるか、今もまだ世界中の誰も分かっていないというのが、まぎれもない現実なのです。

 

一つ一つの物質に関していえば、私たちの口に入る量はごく微量であって、今日の生命を脅かすものではない。しかし、微量でも、長期にわたって私たちが食べ続けた場合はどうなるのか。

こうした結果が、人体にどんな影響を与えるかについて、全世界の科学者にはまだ何も分かっていない。

『複合汚染』有吉佐和子著

 

そして、その「分からない」を、「悪影響が出る科学的根拠は存在しない」という風に捉えて、相変わらず「物質」を増やす手を止めません。

企業、科学、国家、誰も本気で止めようとは思わない。

その結果、*2 野方図になった「複合汚染」のために、〈からだ〉にそなわった「コップ」から水が溢れだし、花粉症やアトピー、食物アレルギーや精神疾患、自己免疫疾患、化学物質過敏症や癌などあらゆる現代病が増加しているのだという「物語」に、僕は、この一票を投じます。

*2 今では、この世界に化学物質だけでも10万種類以上あると言われる。

 

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からだの泣き声


化学物質過敏症や電磁波過敏症に罹ると、衣食住、隅々まで固く鋭利に染められた人工化社会では、文字通り生きられる場所がありません。じわりじわりと追いつめられ、最後は自殺を選ぶことも少なくないと言います。

今から言うことは、取るに足らない仮説かもしれませんし、文学的な想像に過ぎないかもしれません。

でも、僕は、この化学物質や電磁波(つまり〈文明〉に対する身体の側の)過敏症と、癌とは、コインの裏表の関係にあると思っています。

自然物である〈からだ〉が、厖大な量の人工物によって長期にわたって追いつめられていく過程で、癌が内側から肥大化していったり、あるいは、過剰に排出しようとしてあらゆる人工物の過敏症になっていく。

癌は、〈からだ〉の内側で肥大化し、徐々に広がり、侵食していく。すなわち、〈からだ〉という自然が世界から〈あなた〉を排出しようとする。

一方で、過敏症の患者が「自殺」を選ぶというのも、同じように耐えられなくなった〈からだ〉が、〈あなた〉を世界から排出しようと死にいざなう、生理的な反応、と言えるでしょう。

それを「自殺」と呼び、「命を軽んじる」と言うのは、あまりに酷なことではないでしょうか。

 

戦後、農薬や化学肥料を中心に、効率化を求めて、自然をコントロールしたり自然の含有量を減らすための様々な化学物質が普及、浸透していきました。

そして、まもなく、高度経済成長の辺りから、食物アレルギーが問題になり始めました(問題なのは、卵や牛乳、花粉といった個別のアレルゲンよりも、明らかにアレルギー体質の増加でしょう)。

今ではアレルギーだけでなく、精神疾患が、自己免疫疾患が、生まれつきの障害が、様々な過敏症や依存症が、自殺が、不可思議な事件が、不妊や無精子症が、草食系や無気力が、アルコールや油物が苦手な若者が、激しい不安感や突然キレるといったことが “ 増えている ”。

こうした一つ一つを、近代科学、近代的思考は、名称で分割して「別々のもの」であるという風に考えます。

そのため病名や社会的な現象の名前で分断されるのですが、これは、〈からだ〉の、すなわち〈自然〉の、コップの水が溢れだし、症状が、個々人の弱っている場所に出ているに過ぎないのです。

要するに、各々の症状は、〈からだ〉という自然から溢れだした「もう限界だ」というサインや悲鳴であり、たとえば「痛み止め」のような対症療法で「治った」とするのは、泣き叫ぶ赤ん坊の口にマスクを被せて、「良い子だ」と言っているようなものではないでしょうか。

こうした状況のまま進んでいけば、いずれは、様々な場所から様々な形で取り返しがつかないくらいの〈症状〉が噴きだすことでしょう。

そして、かなしみに溢れた暴走とグロテスクな混乱に沈み込んでゆくでしょう。

ぜひ、この世界と、そして自分自身の〈からだ〉の泣き声に耳を傾けてあげて下さい。

 

 

 

小さくなっていく〈自然〉


かつて明治維新ののちに、西洋の概念がいっせいに流入し、その一つである nature の翻訳として「自然」という言葉が当てられました。

今ではすっかり定着した「nature = 自然」という言葉ですが、しかし、 この両者には実は根本的な意味の齟齬があります。

nature とは、一神教的な神の視点から見た客観的な「自然」のことです。

一方で、日本古来の〈自然〉の意味には、この〈からだ〉も含めた、わたしたちも丸ごと自然の一部であるという感覚が深く根づいていました。

 

西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアは、自己に対する客観的な存在で、いつも相対性の世界である。

『新編 東洋的な見方』鈴木大拙著

 

西洋世界では、nature は、客観的な対象として神(および神の似姿である人類)が「管理」するものなのです。

だからこそ、一方で自然の支配や破壊が進み、同時に環境保護(“健康管理”)に対しても、ときに過剰なくらいに熱心です。そこに矛盾はありません。

日本の場合は違います。

日本は、もともと自然が豊かで、わたしたちの方が生かされている、その世界に内包されている、という世界観を持っていました。

だから、神さまも、自ずから成る、植物のように次々と芽吹いたのでした。

 

僕たちは、もう一度、この「自然観」「身体観」を取り戻す必要があります。

近代化や経済成長至上主義とは、たとえば江戸時代の日本を考えたとき、食品添加物もない、コンクリートもない、《100%であった自然含有率を徐々に減らし、反対に人工物の含有率を増やしていく》という振る舞いである(現在進行形)と言えるでしょう。

自然を削り、人工物にしていく。

さあ、世界も人間も水も土も空気も流れ星も人工化していこう、と闊歩する。

この透明の足音こそ、「近代化」「経済成長」という我々が現在信仰する神話の正体であり、そして、終末の姿なのです。

 

われわれはついに自然を奴隷的に模倣するだけの世界を脱して、すべてを人間が創りあげていく、じつに興味深い世界に入ったわけです。

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著

 

サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。「それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない」

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著

 

これまでのように経済成長を最優先し、GDPに一喜一憂し、自然を操作したり軽視したり破壊していたら、もう一つの〈自然〉も同様に壊れていくことは目に見えています。

徐々に居場所を失っていく〈自然〉とは、僕たちそのものなのです。

 

 

 

コップの水が溢れるように


僕は、「病」を自覚し、一歩ずつでも、まずは〈ここ〉から変えていこうと歩みだす〈患者〉の想いの集積こそが、新しい世界をつくっていくと信じています。

まずは、本当の意味で〈ここ〉を大切にすること。そんな風にして、ゆっくりと、〈ここ〉から世界は変わっていくでしょう。

僕は祈っています。

コップの水が溢れるように、ひともすみかも、終わりを迎えることのないように。

 

僕は、医者でもなければ、専門家でもありません。

ただの一人の患者です。患者の一人として、僕も、〈ここ〉から、できることをしていきたいと思っています。

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある、ひととすみかと、またかくのごとし。

『方丈記』鴨長明著

 

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