文学と芸術
高畑勲『かぐや姫の物語』の仏のモデル

Glass Story
高畑勲監督『かぐや姫の物語』
高畑勲監督の遺作となった『かぐや姫の物語』が、高畑監督の哀悼の意も込めて金曜ロードショーで放送されました。
細部まで美しく、「死」を描いた、最後の作品にふさわしい素晴らしい映画ですね。
特に印象深く残るのは、やはり物語の終わり。八月の十五夜の夜、月からの迎えが訪れるシーンではないでしょうか。
これまでの「生」の美しさも醜さも全て飲みこみ、その儚さを突きつける寂しく陽気な音楽と、感情の見えない表情を浮かべる仏。
彼らの前では兵力も無力、姫を失いたくない翁と嫗の悲しみも届きません。
そして、小さな妖精のようなものが、屋敷のなかを飛び回り、姫を連れていきます。この妖精は「飛天(ひてん)」と言い、仏の周囲を舞い、また音楽を奏でて讃える天女です。
飛天は、姫を連れていき、また姫の生きた空間を浄化するように光を振りかけます。
画像 : 高畑勲『かぐや姫の物語』
このシーンの意味については、解釈が様々分かれています。
かぐや姫の今世の記憶を消していく作業ではないか。いや、かぐや姫の地上での記憶に光を当てて観客に見せる演出ではないか、といった意見もありました。
絵コンテでは、「飛天探索 蛍火のように照らし出す」とだけしか書いていないそうです。
僕も映像を見ながら色々と考えてみたのですが、解釈の難しい仕草ですね。
飛天が人間としてのかぐや姫の匂いを消し去っていくようにも見えますが、もしかしたら「意味」を特別持たせずに、映像によって両義的な何かを表現しているのかもしれません。
ラストに登場する月の使者(仏)のモデル
さて、陽気な音楽を奏でながら月からの使者として訪れた仏と飛天ですが、実はあの絵には「モデル」があります。
この「モデル」を知ると、あの月の使者が何者かが見えてきます。
それは、高畑監督自身インタビューなどで語っているように、平安時代以降に描かれた「阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)」です。
臨終の際に、阿弥陀仏が極楽浄土から信者を迎えにくる、そのときの様子を描いた図で、数々の阿弥陀来迎図が残されています。
画像 : 阿弥陀二十五菩薩来迎図・部分(鎌倉時代)
画像 : 阿弥陀聖衆来迎図(鎌倉時代)
画像 : 高畑勲『かぐや姫の物語』
これらの絵を見比べると、この阿弥陀仏の来迎図がモデルになっていることは一目瞭然ですね。周りの天女たちも楽器を持って演奏しています。
この来迎図に登場する楽器は、当時の日本ではほとんど見られない異国のものばかりだったそうです。
中世の人々は、この絵図を眺め、一体どんな演奏を想像したのでしょうか。
それが高畑監督が、この仏の現れるシーンの音楽を考える際の取っ掛かりとした点でした。
もしかしたら、悲しみよりも、もっと愉快な音楽を奏でながら訪れるのではないか。そんな高畑監督のイメージを作曲家の久石譲さんが具現化したのが、あのラストの印象的な音楽だったのです。
これが阿弥陀仏であることからも分かるように、『かぐや姫の物語』にとって「月に帰る」というのは、この世の者に於ける「死」を意味します。
かぐや姫は、罰としてこの世に産み落とされました。
罰とは、「地球」に憧れたことです。
憧れた罰として、地球から遠ざけるのではなく、産み落とす。そして、こんな世界はいやだ、と思ったとき、迎えが訪れる。
しかし、月に連れ去られる直前、天女に「清らかな月にお戻りになれば、この地の穢れも拭い去れましょう」と記憶を消す羽衣をかけられるとき、かぐや姫は次のように叫びます。
穢れてなんかいないわ
喜びも悲しみも この地に生きる者は
みんな彩りに満ちて 鳥、虫、獣 草木花
人の情けを…
こうした表現は原作の「竹取物語」には存在しません。
これは、「人間」を諦めたくない、高畑勲監督の心の叫びだったのかもしれません。
キネマ旬報 2018年6月上旬特別号(追悼・高畑勲) No.1780
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