コップのお話、の話 | コップのお話

コップのお話、の話

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これは始まりです。

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私は、自分の病歴や体、心の症状から、にんげんの〈からだ〉というのは、「一つのコップ」だと思うようになりました。コップに、日々「ストレス」という水が注がれる。

その「ストレス」というのは、多忙やハラスメント、トラウマ、他者からの悪意など精神的なものだけではありません。

今から約40年前、1975年に出版されたノンフィクション小説 『複合汚染』 で有吉佐和子が描き出したように、農薬や添加物、色とりどりの光、香料、洗剤、あるいは今なら放射性物質や電磁波、遺伝子組み換え作物など、数えきれない(何か一つだけが諸悪の根源というのではありません)ほどの化学物質や人工物質も、自然物である〈からだ〉にとっては着実に負荷となります。

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確かに、一つ一つの物質だけなら、目に見える、数値や画像といったデジタル情報で判るくらいの即時的な症状は出ないかもしれません。

しかし、先ほども触れたように、〈からだ〉というのは自然の一部です。

自然は、解剖学者の養老孟司さんのことばを借りるなら、決して「ああすればこうなる」といったような、単一の点と点で因果関係が結ばれるような単純なものではなく、つねに無限の要素が複雑に絡み合って今が訪れる。

そのため、長期的な研究には向きません。

加えて、科学者は、マスメディアの問題点と同様、自分たちの運営資金を得るために、大企業や政府の不利になるような研究はしづらい傾向にあります(露骨に圧力がかかる場合もあると言います)。

そのような背景から、多種多様な「化学物質」を、複合的に、長期的に、あるいは世代を越えて摂取したり浴びつづけた場合にどうなるか、今もまだ世界中の誰も分かっていないのが現実です。

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一つ一つの物質に関していえば、私たちの口に入る量はごく微量であって、今日の生命を脅かすものではない。しかし、微量でも、長期にわたって私たちが食べ続けた場合はどうなるのか。

こうした結果が、人体にどんな影響を与えるかについて、全世界の科学者にはまだ何も分かっていない。

   『複合汚染』有吉佐和子著

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そして、その「分からない」を、「悪影響が出る科学的根拠は存在しない」という風に捉えて、相変わらず「物質」を増やす手を止めない。

その結果、野方図になった「複合汚染」のために、〈からだ〉に備わった「コップ」から水が溢れだし、花粉症やアトピー、食物アレルギーや精神疾患、自己免疫疾患、化学物質過敏症や癌などあらゆる現代病が増加しているのだという「物語」に、私は、この一票を投じます。

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化学物質過敏症や電磁波過敏症の患者さんは、近代化された社会では生きる場所がありません。じわりじわりと追いつめられ、最後は自殺を選ぶことも少なくないと言います。

今から言うことは、取るに足らない仮説かもしれませんし、文学的な想像に過ぎないかもしれません。

でも、私は、この化学物質や電磁波(つまり〈文明〉に対する身体の側の)過敏症と、癌とは、コインの裏表の関係にあると思っています。

自然物である〈からだ〉が、人工物によって追いつめられていく過程で、癌が内側から蝕んだり、あるいは過剰に排出しようとして過敏症になっていく。

癌は、〈からだ〉の内側を通して、自分を世界から排出しようとする。

一方で、過敏症の患者さんが「自殺」を選ぶというのも、同じように自分自身を世界から排出しようとする行為と言ってもいいでしょう。

それを「自殺」と呼ぶのは、あまりに酷なことではないでしょうか。

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戦後、農薬や化学肥料を中心に、効率化を求めて、自然をコントロールしたり自然の含有量を減らすための様々な化学物質が使用されるようになりました。

そして、高度経済成長の辺りから、食物アレルギーが問題になり始めた(問題なのは、卵や牛乳、花粉といった個別のアレルゲンよりも明らかにアレルギー体質の増加の方でしょう)。

今ではアレルギーだけでなく、精神疾患が、自己免疫疾患が、生まれつきの障害が、様々な過敏症や依存症が、自殺が、不妊や無精子症が、草食系や無気力、突然キレたり不安感が蔓延したり、アルコールや油物が駄目だという若者が増えている。

こうした一つ一つを、近代科学は、名称で分割し、別々のものだと考えます。

そのため病名や社会的な現象の名前で分断されるのですが、これは、〈からだ〉の、すなわち〈自然〉の、コップの水が溢れだし、症状が、個々人の弱っている場所に出ているに過ぎないと私は思います。

要するに、各々の症状は、〈からだ〉という自然の「もう限界だ」というサインや悲鳴であり、たとえば痛み止めのような対症療法で「治った」とするのは、泣き叫ぶ赤ん坊の口にマスクを被せて、「良い子だ」と言っているようなものではないでしょうか。

それでは、いずれあちこちから噴き出すように暴走を始めることでしょう。

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かつて明治維新ののちに、西洋の概念がいっせいに流入し、その一つである〈ネイチャー〉の翻訳として〈自然〉という言葉が当てられました。

しかし、〈ネイチャー〉とは、神の視点から見た客観的な〈自然〉です。

ところが、日本古来の〈自然〉の意味には、この〈からだ〉も含めた、わたしたちも自然の一部だという感覚が深く根づいていました。

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西洋のネイチュアには「自然」の義は全くないといってよい。ネイチュアは、自己に対する客観的な存在で、いつも相対性の世界である。

   『新編 東洋的な見方』鈴木大拙著

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西洋世界では、〈ネイチャー〉は、客観的な対象として神(および神の似姿である人類)が「管理」するものなのです。

だからこそ、自然の支配や破壊も進み、同時に環境保護に対しても、ときに過剰なくらいに熱心です。そこに矛盾はありません。

日本の場合は違います。

日本は、もともと自然が豊かで、わたしたちの方が生かされている、その世界の一部である、という世界観を持っていました。

だから神さまも、自ずから成る、植物のように次々と芽吹いたのでした。

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私たちは、もう一度、この「自然観」「身体観」を取り戻す必要があります。

近代化や経済成長至上主義とは、たとえば江戸時代の日本なら、食品添加物もない、コンクリートもない、100%であった自然含有率を徐々に減らし、反対に人工物の含有率を増やしていくという振る舞いだと言ってもいいでしょう。

自然を削り、人工物にしていく。

それが「近代化」「経済成長」という私たちが現在信仰する神話の正体であり、終末の姿なのです。

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われわれはついに自然を奴隷的に模倣するだけの世界を脱して、すべてを人間が創りあげていく、じつに興味深い世界に入ったわけです。

   『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著

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サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。「それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない」

   『すばらしい新世界 』オルダス・ハクスリー著 

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これまでのように経済成長を最優先し、GDPに一喜一憂し、「自然」を操作したり軽視したり破壊していたら、もう一つの「自然」も同様に壊れていくことは目に見えています。

徐々に居場所を失っていく〈自然〉とは、私たちそのものなのです。

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このサイトでは、ここまで述べたような「コップのお話」を軸に、様々なことがらについて考えていきたいと思います。

それは、私たちの「病」を治癒するとともに、この国や、人類全体の「病」を治癒するためのものでもあります。

私は、「病」を自覚し、自分たちで治癒しよう、少しずつ、まずは〈ここ〉から変えていこうと決断した〈患者〉たちこそが次の時代の世界を創っていくのだと信じています。

そして、遠まわりであっても、結局のところそれ以外の道はない、と。

私は、医者でもなければ、専門家でもありません。

ただの一人の患者です。患者の一人として、〈ここ〉から、できることをしていきたいと思っています。

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ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

   『方丈記』鴨長明著

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私たち自身がこの世界から
零れ落ちないように