文学と芸術
選択のジレンマ|誰も傷つけない言葉、誰も傷つけない態度
ある事柄を批判したとき、「それで救われる人もいるんだよ」と言われることがあると思います。
また、何かを肯定したり、表現したとき、「それで傷つく人もいるんだよ」と言われることもあるでしょう。
インターネットによって可視化されたことの一つは、その「必ず誰かを傷つける」という感覚かもしれません。
そのことは、恐らく今の若者たちの方が、より痛切に実感しているのではないでしょうか。
たとえば、原発の問題も、賛否のどちらの側を選択したとしても、その言葉を投げかけられる、ときに激しく投げつけられる。
賛成だと言っても、「それで傷つく人もいるんだよ」と言われる。それは大地や水、未来、人々の健康かもしれません。
反対の場合には、原発で働いている人たちや家族、その地域の財政、企業や政治家など、「それで救われる人もいるんだよ」と言われる。
どちらにしても、誰かに手を差し伸べ、誰かを置き去りにする。
だから、実はこういった批判の言説は、大した意味を持ちません。それは、「選択」に木霊する、避けられない宿命なのですから。
僕たちが、まず最初に選択を迫られる基本的なものとして「言葉」があります。
どの「言葉」を選択しようと、むしろ選択することによって、確実に「言葉にしなかったもの」が生じます。
そこには、「光」と「闇」が生まれる。
そのことを的確に観察し、指摘すれば、どんな言葉も、態度も、批判したり肯定することができる。
好感度を求めたテレビ番組では、クレームを恐れる。誰からも「それで傷つく人もいるんだよ」と言われないような番組を心がける。
その結果、クイズや旅、料理番組で溢れ返る(それでさえ、「闇」を指摘することは可能でしょう)。
あるいは、個々人で考えると、「黙る」「閉じこもる」というのも一手でしょう(それでさえ、「何かを物語る」と解釈されるかもしれません)。
僕たちは、選択すると、同時に「選択しなかった」という選択も突きつけられるジレンマに陥る。
これは僕の友人の話です。
友人は、障害を持った児童のリハビリのケアをする、理学療法士でした。
彼は、あるとき、担当する児童のための車椅子の製造に携わりました。
その車椅子は、その子供の体にぴったりと馴染むものでなければいけません。
なぜなら、日常も一緒に過ごす「体の一部」となるものです。そのサイズが歪んでいたら、それは結果的に児童の身体症状も悪化させることに繋がっていきます。
ところが、一方で「完璧はあり得ない」という事実もある。
つまり、必ず間違える。
でも、彼が「選択」をしなければ、その子はもっと辛い思いをする。
彼は、その苦しい胸のうちを話してくれました。僕は、プロフェッショナルだな、と思いました。
僕の考える「プロフェッショナル」の一つの定義は、自分の仕事に誇りを持つことではありません。
その置き去りにする「罪」を自覚しながら、それでも精一杯を尽くす人こそ、プロフェッショナルだと僕は思う。
僕たちは、「選択」をし、誰かを傷つける。
でも、その「選択」について、深く考え抜くことは可能だと思います。
思考し、信念を固め、ときに揺らぎ、ときに後悔を抱えながら、それでも生きていく。
生きていくことで、「救われる人もいるんだよ」と言ってくれる存在が、絶対にいるのですから。



