政治と社会
存立危機とデモの意義|国会前のデモは、空疎な「言葉」に重みを与える運動である
国会前のデモの意義を考えると、それは「言葉」に必死に重みを与えようとする抵抗の試みだと言える。
国会前で連日行われる、SEALDsを中心としたこのデモは、憲法と手続き、立憲主義と民主主義を守るためのデモだから、護憲派も、改憲派もいる。
憲法を守る、という前提があるからこその護憲であり、改憲であるのだ。
新しいルールを作りたいと考える人たちも、「ルールを守れよ」と言うのは当然だと思う。
なぜなら、「ルールは守らない」という決定が下されたのなら、たとえ今後新しいルールができたとしても、空疎な文章になる。
どんな誇らしく立派な憲法ができたとしても、その重厚なルールブックの、空気は即座に抜けていく。
日本という国の在り方と目指すべき方向性を国内外に表明する文章が、その一行が、未来永劫、空疎で、軽薄で、白々しく眺めるべきものになる。
これは日本人のメンタリティを、目には見えない形で削いでいくだろう。
僕は、世界に誇るべき「自立」した憲法を作りたいと考える人々も同様に、この行為によって奪われることになった被害者だと思う。
たった一度の「なんちゃって」が、永久に言葉の重みを奪う。
これから先、何度改正を繰り返しても、永遠に、言葉は紐帯とは成り得ない。
確かに、今までも自衛隊の存在と条文の解離はあったかもしれない。でも、この条文と解釈の独特の緊張関係が、ある種の重みを与えていた。
ところが、その緊張の糸が切れた。
言葉の重みが失われたときの、長期的な、広範に渡って沁み入るように広がっていく弊害を、彼らは考えもしない。
それは憲法だけの問題ではないと僕は思う。
憲法は、あらゆる法律の根っこである。
その根が腐ったら、見知らぬうちに幹を辿り、やがて枝葉や果実を腐食させる。すかすかの実が、実っては落ちる。それは政治家の言葉でさえも。
そして、木々は存立の危機となり、不毛の地に変わる。
言葉と僕たちを辛うじて繋いでいる信頼の糸が、今、切れかかっている。
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