政治と社会
安保法案のデメリットと言霊|違憲であることが長期的にもたらす悪影響とは
安保法案のデメリットについては、すでに様々な角度から詳細に書かれている。
そこで僕はちょっと違う角度から、この違憲な法案が、政治家自身にもたらす長期的な悪影響について書いてみたいと思う。
政治家という存在は、その肩書きや立派な椅子が存在を担保しているのではない。
政治家の本質は、「縛られている」ということにある。
そして、その縛っている縄が、憲法である。
だから、自由になりたいと言って、その縄をほどいたら、その瞬間、「政治家」も宙にとける。
存在が消える。透明になるのだ。
絵画の本質は額縁にある、という言葉がある。
額縁が不自由だからと言って額縁を取っ払ったら、結局「絵画」そのものが雲散霧消する。
憲法を無化させようということは、この額縁を取り払うことと一緒である。
憲法という額縁によって担保されていた「政治家」、すなわち自分自身を、この法案は無化させる行為なのだ。
頭では、必死に、違憲ではないという論理で自己弁護するかもしれない。
私は存在する、と声を張り上げるだろう。
でも、それは言葉の力というものを軽視しすぎている。
これは制度というよりも、もっと奥深く、無意識の領域で、彼らの存在を徐々に削いでいくだろう。
政治家の存在が透明になるということは、その口から吐き出される言葉も透明になる。
彼ら自身、この言葉の手応えのなさに、振り払っても振り払えない呪詛のような苦しみを味わうだろう。
国民もまた、彼らに与える現実感を失っていく。
ゆっくりと、透明になっていくのだ。
透明な存在となり、生きている感覚が薄らいでいくと、実存を求めて、ときに危険な選択に出ることは周知の事実である。
彼は、病んでいる。
彼らは、「言葉」を舐めすぎたのだ。
僕たちがまず早急にすべきことは、漏れ出してしまった絵の具を元に戻し、額縁をはめ、もう一度復元することだろう。
たとえ、二度と同じ形にはならなかったとしても。
そして、そのことでどれほどの遅れを被ったとしても、急がば回れ、であると僕は思う。
言葉を舐めてはいけない。
それは正しい言葉遣いや豊富な語彙、理路整然とした語り口のことではない。
大切なことは、「言葉」というものに対する、言葉にできない畏怖の念である。
そのことを忘れたとき、僕たちは永遠に言葉から見放されるだろう。
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